絶対女の子がいいな
3月の終わり、ネットで注文していた装苑が届きました。
写真を撮ったのは今日。
図書館から見える桜と装苑。
「女の子 その表現と自由」
私は、自分が女の子であるということをあまり意識して生きてこなかったです。(というか単純に立ち止まって考えることが今までの人生でなかっただけ)でも、この2月・3月と、21世紀に生きる女の子たちの姿をスクリーンでたくさん観て「女の子」という概念についてもたくさん考えました。劇場に足を運んだ回数?5回です。でも、頭の中にこの映画のことがずっと在ったのでこの春休みはずっとこの作品の中にいた気分です。
時系列に沿ってしか経験したことをかけないタイプの人間なので、そのとき見たこと、感じたこと、体験したこと、そこから派生したこと全部を、徒然なるままに、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそもの狂おしくてものすごい量の文章。
になりました。どうか最後までお付き合い願いたいところではあります。
が
そんなに長いの読みたくないなあ〜って人は一旦この記事を閉じて、こちらを読んでみてください。(わたしは爆笑しながら読んだ)
『グラップラー刃牙』も読んでみたくなりました。
1回目はテアトル新宿で。アイスと雨音を本多劇場で観た次の日でした。
作品について何も知らず、東京に行くおまけ程度で行ったので、出演されている女優さんの名前も監督さんの名前も6割くらいは知りませんでした。
山戸監督がプロデュースされていることすら知らず、ほんとうに前情報なしで観て。
山戸監督・山中監督・北浦愛さん・井樫監督・三浦透子さん5名が登壇する舞台挨拶がありました。
舞台挨拶は上映前に行われたので、初めてみる私は誰がどの作品を監督したのかすらわからないまま話を聞いていて。
そんな中、『君のシーツ』の井樫監督のお話が印象的でした。以前「将来が見えないから今一緒にいる意味がわからない」という立場の監督と、「今が楽しければいい」という立場の彼氏さんとで、喧嘩をしたことがあったそうです。最終的に彼氏に「お前は哲学者と付き合っとけ!」と言われたそうで。監督のように私も考えちゃうことがあるので、ちょっとわかるかも、と思いました。
この話を聞いた後に観たからか、私は井樫監督の『君のシーツ』が1番好きです。「セクシャリティあるいはジェンダーについて、ゆらぎが映っていること」という『21世紀の女の子』のテーマが、一番感覚的に伝わってくる作品だと思ったからです。誰とどういう風にセックスをするのかは、誰をどう愛するか、自分の周りの人たちとどういう態度でどういう風に付き合っていくのかという根源的な部分につながるのではないかなと思っています。私は、作品に描かれている【女性でありながら、男性として女性と行為をしたい】というゆらぎそのものを純度100%で感じたことはないけれど、その感覚やイメージが映像を通じて伝わってきたので、初めて観たときもただただ、ぐっと心に残りました。
『回転てん子とどりーむ母ちゃん』の山中監督が、撮影中に行き詰まってしまってベランダ(かどこか)に閉じこもってしまった、というお話も聞けました。京都支部は去年の年末、山中監督の『あみこ』でシネマツーリング(みんなで同じ映画を観て、その後に感想をお話しするというイベント)を開催して。その時に山中監督が交流会に参加してくださいました。ツーリングに私は参加できず、監督にお会いできていなかったのですが、あの舞台挨拶の数十分で山中監督の魅力を感じることができて。
作品にもめちゃくちゃ監督らしさが出ていて度肝を抜かれました。夢の中のお母さんたちに可愛らしく相槌をうつてん子ちゃん。いろんな女性をお母さんと呼ぶてん子ちゃん。世界軸が二種類あって、私もあの回転テーブルに座っていたら、てん子ちゃんにいっぱい愚痴ってしまうかもな、なんて思ったりしました。中国語で3度出てくるタイトルや映像のかっこよさにただただ圧倒されましたが、出演されている役者さん全員が魅力的でした。「絶対なんてない。人は最後絶対死ぬ。そのための絶対なんだから。」という言葉も目から鱗で、帰りの電車の中でしばらくずっと頭の中で反芻していました。
帰り、一緒に観た神戸本部の部員(高橋)と新宿駅に向かいながら、どの作品がよかったか話しました。高橋は『out of fashion』がお気に入りだったそうです。「モトーラさんのミューズ感がいい!」と言っていて。
確かにそうだと思いました。この作品は映像や衣装の美しさに対してもそうですが、終盤の「同じ魂と魂が出会える確率なんてかなり少ない」「女の子は子供を産むまでは子供でいいとか タイムリミットを決められるなんて死んでも嫌だ その代わり夢の責任は自分で取れってこと」「初めから何もなかったよ 青くて無知で超ダサい」という言葉を聞いたら胸がぐーっとなります。私はララちゃんのようなカリスマ性やみんなに愛される才能をもってない(と自身では感じている)から、そんな才能を持っている人に対して無責任な言葉を投げかけてしまいがちです。でも、人間にはそれぞれ生きる速度があるんだよな、と。それは映画を観ておもったのもそうだし、誰かと一緒に観るという経験をしたから考えたことだと思います。こういうことは自分の人生だけを生きていたら気付きにくいことだけど。
2回目は出町座で。公開初日に観に行きました。
通路に置かれた補助席だけではなく、最前列のさらに前に座椅子(お家でくつろぐタイプの)が出るくらいの超満席でした。上映後には安川監督・加藤監督・金子監督3名の舞台挨拶がありました。
『21世紀の女の子』本日初日、大盛況でした!出町座の玄関で加藤綾佳監督、安川有果監督、金子由里奈監督のご来場記念写真。さあ、まだ見ぬ21st century girlsの皆さん、ぜひお集まりください。スクリーンにはあなたが映っているかもしれない。 pic.twitter.com/M9q4pFkk7i
— 出町座 (@demachiza) February 23, 2019
新宿での舞台挨拶とは違って、出町座ではめちゃくちゃ至近距離で監督の姿を見ることができて。とにかく「全員可愛い…」としか思えなかったです。30分くらいで、比較的長い時間の舞台挨拶だったので、本当に濃いお話を聞けたり、それぞれの作品に出演されている女優さんの話もたくさん聞けました。
『ミューズ』の安川監督は、主演の石橋静河さんのお話をしてくれました。『21世紀の女の子』に出演されている役者さんたちのキャスティングはオファーだったりオーディションだったり、監督によって様々だったそうです。安川監督は石橋さんをオファーでキャスティングされたとおっしゃっていました。撮影当時は、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』で新人賞を総なめしていた石橋さんですが、この作品の撮影が1日だということもあって参加してくれた、という裏話も聞けて。
安川監督はパンフレットで、レナ・ダナムの名前を挙げてくれていました。シネマツーリングの話を度々出してしまいますが、去年の夏に『タイニーファニチャー』を観ました。参加者の人たちと交流会でいろんなことを話しているうちに、自分がみている自分と人が見ている自分の差とか、人間は他人の理想通りに動けないなとか、いろいろなことを考えて。安川監督の作品を観ても、綺麗に丁寧に生きていたいけどそう簡単にはいかないよな、と思って少し苦しくなりました。と同時に私も旦那さんの立場で他人に幻想を抱いたりしているなと反省したり。「人生って、ちゃんと進んでったほうがいいんだよね」「進まないときもあるよ。誰でも」という後半のやりとりが好きです。村上淳さんの最後の表情も惹かれました。
『粘膜』の加藤監督はとにかく話を回してくださって、いろんなことを話してくれました。(R指定がつかない程度のエロ担当だとおっしゃられていたのが個人的に面白いなと感じたポイント)主演は日南響子さん。中学生の頃読んでいた雑誌に出ていたので、お名前だけは知っていたのですが、演技を観るのは初めてでした。とにかく綺麗で美しくて。監督たちがキャスティングで日南さんを取り合いになったとお話していた理由がわかりました。
加藤監督はパンフレットに「ジェンダーに対する肯定を描きたかった。」と書かれていました。誰かの一番になって愛されたいけれどセックスはできない女の子と、セックスが好きでいろんな相手とできるけれど本当の愛を持っていない女の子。Mirrorに次いで女性を対比しながら見た作品でもあります。上映順が最後から3番目、山戸監督の『離れ離れの花々へ』の前だからこそ、21世紀の今を生きているごくごく普通の女の子の姿をより一層感じました。この今を生きている馬鹿な女の子は、私含め、たくさんいます。単純には済ませられない比較や想像を超えたところに肯定が存在するのだと思いました。揺らぎではなく肯定を描いた加藤監督の作品。ちょっとエロくて大好きです。
『projection』の金子監督はとにかく面白くて可愛らしい方でした。パンフレットを読んで、この作品が監督ご自身の経験をもとに作られたものだということは舞台挨拶の前に知っていたのですが、そこからどうやって主演の伊藤沙莉さんと役作りをしていったかという話が印象的でした。監督ご自身が体験したことを喋っているうちに「金子監督をそのまま演じればいいんだ」と伊藤さんが納得してくださったそうで。素敵。伊藤さんがもともと持つ暗い感じも監督自身と似ていると感じたそうです。
冒頭のセリフ、「ここは、物語の外」というのは私も普段の生活の中で感じているところがあります。誰かの「可愛い」がさししめす先に私はいないなあとか、自分は誰にも必要とされていないんじゃないかとか。だからこそ、自分以外の人に自分の写真や映像を撮られること=自分以外の人間に自分自身を認めてもらえること、が物語の外にいると感じている人にとってはとても重要なことなのではないかなと思いました。ラストの写真のカットの中には笑顔の写真もあって。カナコちゃんも写真を取られることで誰かの物語の中に入って、自分を認めてもらった感覚があったんじゃないかなと思いました。
3回目も出町座で。この作品で出町座デビューを果たしたバイト先の先輩とでした。
先輩に「全部分かんなかった。私はこの世界を生きていないと思った。だから岡本さんの話を聞いてみたいな。」と言われ、ちょっとびっくりしました。
先ほどの『projection』や『ミューズ』では写真やカメラが大きな要素になっています。写真のカット割りが出てくるのは『out of fashion』もです。『愛はどこにも消えない』のちかこちゃん(橋本愛さん)や、『reborn』のりくくん(平井亜門さん)はカメラを持っていました。今回一緒に観た先輩も、カメラを首にかけていて。その先輩は『Mirror』が印象的だと言っていました。
『21世紀の女の子』の中で、女性が2人以上出てくる作品はたくさんありますが、この作品を観た後、2人の二項対立が一番顕著だなあと感じました。ポスタービジュアルでも(3人以上映っているものや、『エンドロールアニメーション』を除いて)唯一、2人の女の子の姿が映っています。
辞書で「二項対立」という言葉を調べてみると
二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしているような様のことをいう。元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立ということもある。
という定義が出てきます。「主人公の2人は分裂した自分でもあります。」という監督の言葉の通り、この作品は後者であると感じました。どちらが正しいなんてなく、お互いがお互いを見る視線や感情が大事なのだと感じて。ラスト、シャッターが切られる場面でドキッとさせられる感じも好きだなあと思いました。
ラストでドキッとさせられる、というので好きなのは『珊瑚樹』です。
15作の中で抽象的な作品というのは数ありますが、『珊瑚樹』は格段に自分の中で考える場面や想像する場面がたくさんあって。あの3人はなんでおんなじ家に住んでいるのだろう、「お金を貯めたい」と言っていた理央は、お金を貯めて何をしたいのだろう、いつから春は理央が好きで理央はユミが好きだったんだろう。冒頭の「あの頃、私たちの時間はあの子を中心に回っていた」はの「あの子」は誰のことを指しているのだろう。色々なはてなが浮かぶ中の最後のキスシーン。それぞれの心の中に大切なあの子がいて、三角関係だからこそ感じられる息苦しさとか、気まずさとか、そういう部分をこの映像の中から感じました。でも感じるべき部分は他にもある気がしていて。ふわふわしています。
パンフレットには夏都監督が作曲した楽譜が載っていました。私は楽譜が読めないので、いつかピアノが弾ける誰かに弾いてもらいたいです。その時にもう一度この作品を見て何かに気がつきたいと思いました。
4回目は初めて行く元町映画館で。出町座で知り合った方と一緒に行きました。上映後に、金子監督・松本監督・ふくだ監督3名の舞台挨拶もあって。15分ほどの本当に短い舞台挨拶でした。
『21世紀の女の子』
— 元町映画館 (@moto_ei) March 3, 2019
2019.03.02
ふくだももこ監督、松本花奈監督、金子由里奈監督による舞台挨拶を開催しました。
日本映画ってまだまだ面白くなる、この勢いがいつまでも続いて欲しい…。司会者も含めて、それぞれの今後がますます楽しみな舞台挨拶でした!!(ひ) pic.twitter.com/PL3XLGQ3dF
その中で金子監督が「私も『I wanna be your cat』の主人公のように『書けない〜〜〜!!』って思うときがある」と言っていました。3回目を観たときの舞台挨拶でも出町座の支配人、田中さんが「この作品、いいですね」と言っていたり。
初めて観たときはなんだこの女の子は!!とおったまげて(笑)。とにかくわがままに見えて、好き勝手言いやがって〜なんて思ったりして。正直、好きになれないタイプの女の子だなあと思っていました。でも、2回3回と見るうちに、テンポの良いやりとりや可愛らしい表情、あまりに純粋な気持ちを持っている女の子で、気づけば好きになっていました。
私は創作活動を生業にしたことがなく、作られたものを享受する生活しか送ってこなかったので、私生活と仕事、現実と非現実がごちゃごちゃになる感覚を体感したことがありません。でもこの作品を見て、もし自分が何かを作る側だったらどんな風になるんだろう、と少し考えました。男性のことも嫌なやつだな、としか思えてなかったけれど「ずっと非日常にいるから、切り離せないんだよ」という言葉を聞いて、ハッとしました。
ぽんぽん進むやりとりも、喫煙席と演劇のくだりも、急に静かになるところも、ラストのシーンも、感情を全部むき出しにしている女の子の姿が、笑えたり可愛らしいと思えたりして、今では全部好きです。
『愛はどこにも消えない』の松本監督。以前神戸支部のメンバーたちが“チアシアター”というイベントで監督の作品を上映していました。その時からお名前を知っていたのですが、今回のこの作品で監督の作品を初めて観て。
何度観てもとにかく、映像、声、出てくる言葉のあまりの可愛らしさに胸がキュンキュンします。ミュージックビデオを観ている感覚で、初めて観たときは出てくる言葉をうまく咀嚼できず、少し後悔しました。
私は最近、人生はあまりに有限だと感じてしまいます。だからこそ、自分の人生の1ページに居てくれる人(一緒に映画を観てくれた友人たちや、一緒にご飯に行ってくれる人、同じ時間を過ごしてくれる全ての人)がとても大切で。ちかこちゃんがヒロトくんと過ごした時間も、私たちが生きている時間も、一瞬一瞬の積み重ねで今になって過去になって未来があります。映像の中で時系列がきちんと示されていたり、「きっと無駄な時間なんてない」という監督のメッセージを知ってから、流れた涙の行く末まで丁寧に描いてくれているこの作品がとても可愛くて綺麗で好きになりました。装苑(冒頭の写真の)でのインタビューで主演の橋本愛さんが、松本監督のことを「女の子の一瞬を逃さない監督」だと表現していたのも納得でした。
映像が可愛らしい感じは『恋愛乾燥剤』にもちょっと通じるような感じもしました。この2作品はポップで可愛いだけじゃなくて、考えさせられる部分もたくさんあって。もう少し長い映像で観てみたいなと思いました。
初めて観たときはただ、恋愛乾燥剤は相手の気持ちを乾燥させるものだ思っていて。でも「増えすぎた雑念を恋愛乾燥剤でろ過して、出会った頃と同じ気持ちに戻り、「私とあなた」だけのこれからを描きたかった。」という枝監督の言葉を読んで、わああ、なるほどと。雑念が増えるごとに菊ちゃん(山田杏奈さん)のスカートの形が変わっていくのもとっても可愛い演出だなと思いました。
雑念が増えるというのは、恋愛だけでなく何事でもそうです。初心を忘れないなんて無理で、初心は必ず忘れていくものだと思っています。でも、経験していないことと忘れることは違って。いろんな場面での「初心」が何個も何個も積み重なって今の私があるんだなあと思って、自分の初恋のことも思い出してみたり。だから、最後にミキオくんの名前を呼びながら走る菊ちゃんの顔が作品の中で一番可愛くて、ずっと観ていたいと思いました。
『セフレとセックスレス』のふくだ監督とは意外なところで共通点があって。
ある日、ぼやっとTwitterのタイムラインを眺めていたらこんなツイートが流れてきて
セフレとセックスレスは
— ふくだももこ (@fukuda_27) February 23, 2019
ブラジャーのホックを外す時だけ
心の中までわからなくなった映画です#21世紀の女の子 pic.twitter.com/QCwP80TWYG
実は「ブラジャーのホックを外す時だけ心の中まで分かった気がした」という歌い出しの曲があるのです。My Hair is Badというバンドの『真赤』という曲。
私はこのバンドが一番大好きなので、まさかこんな形で自分が観た映画と自分の好きなバンドが関わるなんて思ってもみなくて、だから本当に嬉しくて。
『セフレとセックスレス』というタイトルを初めてみたときは、不思議なタイトルだなあと思ったのですが、内容はいたってシンプルで誰にでも起こりうる話だな、と思いました。
映画を観ていない友人に「このタイトル、【恋人になってセックスだけの関係じゃなくなった】という良い意味にとれたり、逆に【好きだったのにセフレですらない赤の他人になった】という悪い意味にもとれるね。ほんとはどっちの意味だったの?」と言われて、そんな解釈ができるのか!と思って。セフレという関係は危うくて脆いものだなと思いました。単純にこれからはいい恋愛がしたいな。東京国際映画祭の舞台挨拶で、「7年くらい付き合ってた彼氏と別れたんですけど」ってさらっと言えちゃうふくだ監督が私は大好きです。
鑑賞済みの元町映画館のスタッフさんにどの作品がよかったかきいてみると『reborn』という返答をもらって。
この作品も詩的で、いろいろなことを考えながら見ました。「狂ってる」なんて言葉を他人に言ったことはない私ですが、うまくいかないことがあったり思いつめてしまうときは布団に潜って天井をよく見上げます。だから「わたしの心の半分は、海にある」という言葉がお気に入りです。天井はキラキラした魚が泳ぐ海。「僕は誰よりもわかる。誰よりも理解してるよ」という言葉を聞いたときは、こころや考えなんてものは他人には一生理解してもらえないのだと感じました。同じ時間を過ごしていても、愛していても、2人はすこしどこか見ている部分も感じている部分も違って、自分自身を愛している部分もあって。雨の中傘をさしながら話す2人をスクリーン越しに観ているはずなのに、私までその場にいるような気分になりました。
観終わって三宮駅に歩いているとき、彼氏の名前がりく(陸?)くんだったことに気がつきました。陸と海。陸を壊して自分と海だけになったら私自身になれるのかな、とちょっと壮大なことを考えたりして。
5回目は出町座で。元町映画館で一緒に観た人と行きました。思い返せば、出町座で3回も観たんですね。笑っちゃう。
『離ればなれの花々へ』はとにかく、毎回見るたびに訳もなく涙が流れてきます。劇場が暗くなって、「今回こそは冷静に見るんだ!」と決めていても13作品の後、最終兵器のようにやってくるこの作品を観る頃にはその気持ちを忘れていて。
「もっと愛してくれなきゃ足りない」という言葉を聞いたらいつも涙が出はじめてしまいます。これはうまく説明できないのだけれど。
詩人の最果タヒさんが、こんなツイートをされていました。
映画館は、映画を手渡される場所であるのかもしれないとおもう。自分と同じ時代を生きて、自分と同じ場所を生きている、だれかが、作る映画であると、映画館の灯りが消えるそのときに、知る。少なくとも、『21世紀の女の子』は、きっとそのために生まれた映画。
— 最果タヒ(Tahi Saihate) (@tt_ss) March 19, 2019
この作品のラスト、一瞬だけカチンコが映ります。そのとき、最果さんのいうように、この花園の世界もこの21世紀の女の子という映画も終わってしまうのだ、これは誰かつくっているものなんだ、と感じます。
山戸監督はこの作品を「母と神と映画が三位一体になっている映画」だとおっしゃっていました。あふれ出る言葉が映像の中に生まれてはすぐ、刹那的に消えてしまいます。それがあまりに寂しいので、全てを文字起こしして活字として自分の手元に持っていたいと思ったけれど、一瞬で消えていく言葉たちも愛おしいなあと思います。この作品を何度も観たり、舞台挨拶に行ったり、パンフレットやいろんな記事を読んで、山戸監督が紡ぐ言葉が大好きになりました。もっともっと監督の作品を観たいです。
帰り道、あの3人は自分の思考回路で、あの花園は映画で、地球に生まれるというのは映画館を出て普段の生活を生きはじめるということなんじゃないかなとも思いました。好きな気持ちが一番うまく説明できなくて、説明しようとしたら多分今まで書いてきたのと同じ量の文章を書かないと伝わらないような気がして、でも多分それすらできなくて。それでも、大好きな大好きな作品です。だからこそカチンコが見えたとき、とてもとても寂しくなります。
追随して、『エンドロールアニメーション』も好きです。
映画をとる子(映画監督)と映画を観る子(私たち)は普段、直接会うことはできません。監督来場のイベントを開催している映画館では実際に監督と会うことができますが、とる子とみる子が密に関われるのは、作品である映画を通してだと私は考えています。
今読み進めている、和辻哲郎の本の『面とペルソナ』という章ににこんな一説があります。
我々は顔を知らずに他の人と附き合うことができる。手紙、伝言等の言語的表現がその媒介をして呉れる。然しその場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語に表現せられた相手の態度から、或は文字に於ける表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接逢った時に予期との合不合をはっきり感じさせるほどの力強いものである。
『21世紀の女の子』を初めてテアトル新宿で見た時、名前だけしか知らなかった監督も名前すら知らなかった監督も、5回も見たらとても身近に感じるようになりました。それでも顔を見た事がない監督の姿は想像するしかなくて。
そんな時、この東京国際映画祭の舞台挨拶を見つけました
14人全員の姿(顔)をこの動画で知ることができました。エンドロールアニメーションのとる子とみる子のように、わたしは全ての監督と対面してお話したり同じ時間を過ごすことは出来なかったけれど、この映画を通じて同じ時間を過ごした気がしています。
2時間一緒の時間を過ごした映画も、一緒観てくれた友人それぞれも、14人の監督も
「これからどんどんわたしの知らない友達つくって 恋人つくって セックスハマって 知らない人になる 相談されることもない バラバラにされたあなたを勝手に固めて違う形になる」
やっぱり他人になります。LOW hAPPYENDROLLの歌詞のように。なります、というか他人なのです。感情が揺さぶられるような時間が過ぎた後、感じるのは『離ればなれの花々へ』や『エンドロールアニメーション』を観終わった後に感じるのと同じ感覚のような気がします。自分以外は全員他者であることを実感し、他人のことなんて全部わかってあげられないと実感するのです。それでも、最後のみる子の涙と、今まで自分が映画館で流した涙が重なって、前に進もうと思えます。
◯
と、ひと作品ごとに思い入れと感想を書いてきましたが、改めてこの『21世紀の女の子』という作品はとてもきれいな連続芸術だなあと思いました。
出町座の舞台挨拶で、『projection』の金子監督が山戸監督の作品を「おっきい受け皿みたいな感じで」「前の13本がどんな作品になっても、山戸監督の作品は21世紀の女の子をひっくるめてくれる」とおっしゃっていました。
東京国際映画祭の舞台挨拶で、『Mirror』の竹内監督が山戸監督に「『出てくる監督がみんな女性だったら、“女らしい・女性らしい感性”とか言われることがなく、作品それぞれに対してちゃんと話ができるような映画になる』と声をかけてもらった」とおっしゃっていました。
きっとそれぞれの監督がそれぞれいろいろな思いを込めてこの映画を撮ったはずで。その分、見る側の私たちもいろいろな思いを感じながらこの映画を観てしまうのです。
「『21世紀の女の子』5回観たんだよ〜」と言ったらいろんな人に「すごいね」とか「愛だね」と言われたのだけど、1度の映画体験で終わらせるにはあまりに勿体ないと思いました。15本、8分の中に込められた思いは8分観ただけじゃ伝わってこないと思います。
全てに共感できる必要もないけれど、何も感じずにはいられない。そんな映画でした。
わたしは大学生という身分で、自由に時間を使えた春休みの期間に、これだけの回数、いろいろな場所で、いろいろな人とこの作品を観れたことがとても大事な経験になりました。自分の好きなものがどんどん広がったし、自分の人生の中でとてもとてもとても大きな作品になったと思います。きっと。
最近、この映画を観た男性とおはなしした時「わたしも女の子として生きて、この映画を観てみたかった」と言われました。その言葉を聞いて、(この言葉は色々な場所でもう既に言い尽くされているように思いますが)本当に、性を描いているようで生を描いた映画だったのだろうと感じました。『21世紀の男の子』があったら絶対観に行きます。なんて。
映画を観て、「これは自分のための映画だったんだ!」と思えることはとても大事なことなのだと思います。だからこそ、わたしのための映画だったのかなあと思うことにしておきます。いや、わたしのための映画だった。
これからも、ずっと、この作品を胸に。
いつまでも夢見がちな女の子でいさせてください。
映画チア部京都支部 岡本
いつものチア部日記に比べると遥かに文章量が多く、論文並みの文章量になってしまったので(笑)参考にしたサイトや本を示しておきます
❶まず、画像は、私が撮影したもの以外は全て公式サイトのものです。こちらもとても素敵なサイトです。
❷新しい気づきをくれたパンフレット。もうパンフレットというより解説書に近いです。この作品を鑑賞済みでお持ちでない方はぜひ。
❸『装苑』2018年11月号。これも21世紀の女の子を観た方は必携です。21世紀の女の子の特集以外のページも見逃せない!
❹わたくし、実は大学で哲学を専攻しているため、和辻の本を読んでいたのです、、、この本は出町座併設の本屋さん、CAVA BOOKSさんで購入しました!とても読みやすいです。
序盤でサイトを閉じず、ここまで読んでくださった方に本当に感謝です。
そして映画を上映してくださった映画館のみなさん、わたしと一緒に観に行ってくれた友人たち、14名の監督と出演されているみなさん。
そして何よりこんなに大好きになれる映画をプロデュースしてくださった山戸結希監督。
ありがとうございました!
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