君が君で君は君だ
誰かを愛するということがわかりませんでした
今も昔も、世間に溢れるのは愛とか恋とかの歌で。高校の頃はいくら聞いてもどの歌詞にも共感できなくて寂しい思いをしていました。
歌詞の中には、自分と相思相愛の(だった)「あなた」が出てくることが多くて、
”あなたさえいれば何もいらない”
なんて思ったことがない私は、ただただぼやっと、とにかくぼやっと曲を聞いていました。自分にとっての「あなた」をいつまでもいつまでも待ち続けていました。
今までの人生、自分から告白することも何度かあったし、告白してきてくれる人もいたし、付き合うようなこともあったけれど
でも分からなかった。自分の身の回りにいる人がどうやっても「あなた」にならなかった。恋愛には一定のフォーマットがあって、正解があるような気がして、それに乗れていないような気がしていて。そんな自分が悔しかったです。
でも福岡で観た『君が君で君だ』3回目のエンドロールで「君が君であるために」の言葉を聞いたときに、誰かを愛するということが少しだけ自分の近くに寄って来てくれたような気がしました。
7月、チア部の藤原とTジョイに観に行った1回目。みたときはなんだこれ、って思いました。「心に刺さった」って言っていた藤原の言葉にピンとこず。
観にいく前日の夜、いつもは見ない映画感想サイトを見て見つけた
「この映画はクソだ ストーカーの肯定につながる」「尾崎豊の曲を汚された」という言葉が自分の胸に残っていたからかもしれません。
ストーカー。ここに出てくる3人は社会的にみればストーカーで。
でもストーカーと純愛の違いは?なんて聞かれても私はうまく答えられる自身はなくて。
「私はずっと見てきましたよ」と、宗太に「お前はそばにいるだけか」「姫の全部覗けるか」って叫ぶシーンは何回見ても胸が締め付けられます。
自分のことは自分しかわからない、ということはよく言われます。
病院から戻って来たソンは、3人のアパートに入ってきて写真を破りながら「これ誰!?」と叫んでいました。尾崎、ブラピ、坂本の3人はソンのことをずっと見守っています。だからこの映画も、そして3人の人生もソンの出来事を中心に進んでいきます。描かれているのは10年。10年もあれば人は変わっていくでしょう。私の10年前は9歳!?そりゃあ変わるだろ、思考回路も肉体も精神も好みも性格も。
でも、長い年月を経てじわじわと変わっていく自分というのにはなかなか気がつけなくて。自分を客観視することはとっても難しい。客観視しても、昔の自分を消したいなって思っていくかもしれない。だからこそストーカーとして彼女の人生を一緒に生きていた3人(特に尾崎)はとてもすごいことというか異常だと思います。ソン自身が気づけない部分ですら尾崎は見ている。変わっていく部分も全部、全部見ていて。
だからこそ「私はずっと見てきましたよ」の言葉の重みが胸にきました。
初めて観てから1ヶ月経った8月、大好きな出町座で大好きな『アイスと雨音』と『君が君で君だ』が二本立てで上映してもらえることが決まりました。田中さん、本当にありがとうございます。
イベントの準備も同時進行で始まって。松居監督の過去作品、尾崎豊の曲、ゴジゲンのこと。君が君で君だのインタビュー。いろいろなことを調べるようになりました。
そうこうしているうちにあっという間に10月がやって来て。
2回目はもちろん『アイスと雨音』と二本立てで観ました。公開初日の13日に!出町座のシアターでこの二作品が見れることが嬉しくて、とにかく始まる前もニヤニヤし観終わってもニヤニヤしていました。
チア部のイベントの準備のためにみなさんからいただいた質問に目を通していると、同一化というのが大きな要素になっていることに気がつきました。
映画を見た数日後の哲学の授業で、フロイトの同一化についての授業を受けて。リビドーについても少し話がありました。
“人間が一つの容器だとしたらリビドーは常にあふれている状態にある。自分の中に留めることはできないから、人間は誰かを愛さないといけない。愛する対象を喪失したとき、相手に向けられていたリビドーは自分に向かう。「対象への愛は捨てきれず、対象だけが棄てられる」”
そう授業では言っていました。尾崎もまたソンと同一化することで、ただ見守るだけではなく、より一層ソンの人生そのものを生きようとしていたのかなあ、なんて思いました。
10月16日、松居監督をお呼びして出町座でチア部司会のイベントを行わせてもらいました。とにかくもう楽しかったし嬉しかったです。いまでも思い出すと心がぽかぽかしてくるほど…。
たくさんのお客さんが来てくださって。拙すぎる司会進行でしたがみなさん聞いてくれて嬉しかったです!とにかく嬉しかった!もうね〜それしか言えません。監督にもたくさん助けられました…本当にありがとうございます。
イベントが終わった後、もう少し松居監督の作品とともに愛とか恋とかを考えていたい!と思い、弾丸で北九州への旅を決行。もちろんゴジゲン第15回公演『君が君で君で君を君を君を』を見に行く為でした。
新幹線に飛び乗り初めて降りたった小倉。小倉昭和館さんで『君が君で君だ』の上映前に監督の舞台挨拶があるとの噂を聞きつけ、いろんなミニシアターにいきたい欲求も爆発し、『君が君で君だ』3回目。
2月に見た『勝手にふるえてろ』での主人公のヨシカは、中学の頃からずっと片思いしていたイチに自分の名前を覚えてもらっていなかったことにショックを受けて落ち込んでいました。でもそんなヨシカとは反対に、尾崎はソンに最後まで自分の名前を告げていなくて。
夢(理想)の空港のシーンでは、尾崎はソンにきちんとフルネームで自分の名前を告げているけど、実際に伝えられたのは海辺で言った「僕は僕です」という言葉だけで。
そのあとにソンは「好きなことしてよ していいよ してよ」と尾崎に伝えるけれど、きっとその言葉の裏には「僕は僕です」と言ってくれた尾崎に自分の人生を生きて欲しいという思いがあったんじゃないかなと3度目の海辺のシーンを眺めながら思いました。
向日葵を口にしながら海に飛び込む尾崎。その間はソンが尾崎のことをずっと見つめています。「太陽であるソンをひたすら見つめる向日葵としての尾崎ではなく、僕として、自分自身の時間が過ごせるようになるのかな…。」と思った後の空港のシーン。韓国に向かう尾崎はこれからどうやって生きるのだろうと考えさせられました。釜山では快晴。
小倉昭和館から北九州芸術劇場に向かう途中、太陽の橋を通りました。
橋の地面には向日葵が描かれていて。「あっ、『君が君で君だ』と繋がっているんだなあ」って感じて、スキップをしながら『僕が僕であるために』のサビだけを歌いながら北九州芸術劇場に向かいました。
『君が君で君で君を君を君を』も、とてもとてもとても素敵な舞台で。映画とはまた違った形で愛が描かれていました。ユリちゃんの演出を見た時に涙が止まりませんでした。
愛する対象も、愛し方も、みんなそれぞれ違っていいんだと。
詳しく書きたいのだけれど書いたら文字数がアレなのでやめときますね。
そして、公演の物販で買った『極めてやわらかい道』も見ました。
こちらは映画の元になったのが良くわかりました。松居さんの役がよかったです。胸が苦しい。
ゴジゲンの舞台、『極めてやわらかい道』が7年前にあって
それをもとに制作された今年の映画、『君が君で君だ』
そしてさらに深めた舞台、『君が君で君で君を君を君を』
という流れで松居さん(もう監督というより、松居大悟さんですね)は愛についての作品を作られていて。
しれば知るほどすごいことだと、これはすごいぞと思いました。こんなことある?
『アイスと雨音』に衝撃を受けて、最初はおまけ程度に観た(申し訳ない)『君が君で君だ』
1回目はピンとこなくてもやもやしていました。
でも、この映画に出会えたおかげで「愛するとは」について考え始めることができて、時間が経つにつれ、どんどんどんどん大好きな映画になっていきました。
今の私にはまだ「あなた」はいないけど、少しだけ進歩できた気がします
小倉での舞台挨拶でも言われていたし、イベントでもおっしゃっていた
「恋愛は惚れたもん負けだと思わない 誰かを好きだな素敵だなって思うことそのものがとてつもなく価値があると思ってる」
という言葉にとても救われています。愛にフォーマットなんてない。
これから生きていく中で、自分なりの愛を見つけていけたらいいなと思います!
今、この世界に生きていてよかったと思います。これからも生きていたいです。
愛についての作品に埋もれた時間はとっても素敵な時間でした。この余韻を自分の中でもう少し引きずります。
映画チア部 岡本
0コメント